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作成者:内海慶一
Author:UTSUMI Keiichi
picto@mx35.tiki.ne.jp
ライフログ


カテゴリ:ぬかコラム( 80 )
もしもクリスマスが
クリスマスはお正月の約1週間前にある。
かなり近い。ニアミスだ。
もしもクリスマスが1月にずれ込んでいたら、
日本のお正月はかなりカオスなことになっていただろう。

おせちの中にケンタッキー。

しめ飾りとリースが融合。

門松に電球。

サンタとトナカイが空を舞う、凧揚げ。

獅子舞かと思ったらトナカイ。

一富士、二鷹、三トナカイ。

♪ジングルベール、ジングルベール、108つ〜



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by pictist | 2009-11-11 00:42 | ぬかコラム
delete
deleteキーを見ると、どうしても
「ディレート」という言葉が浮かんでしまう。
最初にそう覚えてしまったからだ。
ほどなくしてデリートと読むのだと知り、
以後はそう言っている。

しかし私の頭はそんなに柔軟ではない。
十数年経った今も、いまだに
「ディレート」が先に頭に浮かぶのだ。
だから口に出して言う時は、いったん頭の中で
「デリート」に変換しなくてはならない。

この記憶をdeleteできないか。
とかうまいことを言おうとしても、
やっぱり「ディレートできないか」と浮かんでしまう。

そんな状況の中、最近
「〝ディリート〟が英語の発音に近い」
という話を聞いた。
もう勘弁してくれ。



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by pictist | 2009-10-25 11:05 | ぬかコラム
本来の味
ここ何年かで、「本来の味」という
言葉がよく使われるようになった。
「にんじん本来の味」とか
「鶏肉本来の味」などと言ったりする。

「本来の味」が普通にある世の中なら、
本来の味という言葉は流行らないだろう。
つまり今の世の中、本来の味じゃないものが
溢れているということなのかもしれない。

ところで、我々が本来の味のしない
食べ物ばかり食べているのなら、
うんこも本来のにおいがしないのではないか。
現代人のうんこは、うんこ本来のにおいがしないのだ。

3回連続、尾籠な話で申し訳ない。
下品な話をいかにスマートに書けるか
実験したのですが、失敗に終わったようです。

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by pictist | 2009-10-14 22:01 | ぬかコラム
あたらしい名称
おならは、医学的には「放屁」と言うらしい。
なんだか、今ひとつ医学っぽくない。
「放つ」て。
うんこを大便と言い換えたときの
かしこまった感がない。

新しい用語をつくったほうがいいのではないか。
たとえば「肛気」というのはどうだろう。
肛門の肛に、気体の気だ。

発音したとき「高貴」と同じなので、
高級感が出ていいと思う。

あと「香気」を連想させる点もいいと思う。

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by pictist | 2009-10-06 08:27 | ぬかコラム
たこの口
たこの口は、漫画などでは円筒状に描かれる。
実際のたこにも円筒状の器官がついているが、
あれは漏斗(ろうと)という器官で、
口ではないのだそうだ。
たこは漏斗から水を噴射し、
そのジェット水流によって進む。
また、墨を吐き出すのも漏斗からだし、
糞もここから排出するらしい。
だから漏斗は、肛門みたいなものなのだ。

たこ焼き屋さんの看板に
よくたこの絵が描かれているが、
あのにゅーっと伸びた口が
肛門なのだと思うと、
なんとも切ない気持ちになる。

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by pictist | 2009-09-26 00:00 | ぬかコラム
前のページ・次のページ
検索で辿り着いたブログを見ていて
一番下までスクロールして、
そこに「前の5件」「次の5件」と書いてあると、
いつもどっちがどっちか分からなくなる。

どっちへ行けば過去の記事が読めるのか。
どっちへ行けば未来の記事が読めるのか。

ほとんどのブログサイトでは、
「前」が未来、「次」が過去になっている。
しかし私はいつも逆に考えてしまい、混乱するのだ。
しょっちゅう間違ったほうをクリックしている。

「前」って、前だろう。
「そういえばこの前さあ」の、前だ。
過去だ。

「次」って、「次はキミの番だ」の次じゃないか。
未来だ。

たしかに「前」を未来だとする考え方も、
よく考えれば理解できる。
しかし私の場合、よく考えれば、なのだ。
瞬間的に分からない。

いつも「あれ?どっちだったっけ」と思い、
「自分が思うのと逆だから・・・」といちいち考える。

さらにそれを繰り返していると
中途半端に学習してしまって、
「逆」がどっちの逆がわかんなくなってきて、
ますます混乱している今日このごろです。

たぶん一生間違い続けると思う。

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by pictist | 2009-09-18 12:35 | ぬかコラム
置き物
欲しくて手に入れたものが
いらなくなる瞬間っていつなんだろう。
特に置き物に対して、よく思う。
使うたびに古びていくものなら
「欲しい」から「いらない」に変わるのは分かる。
しかし置き物は違う。
物や状況ではなく、自分の心が変わっているのだ。

まず「欲しい」と思って、買う。
部屋に置く。
時間が経つ。
ふと気づくと、「いらない」と思っている自分がいる。
でも気づくタイミングって、
だいたい大掃除をする時とか
引越しをする時とかだ。
その時点で急に「いらない」になったわけではない。
つまり、「これいらないな」と気づいた時よりも、
もっと前から「いらない」になってたはずなのだ。

それは、いつなんだろう。

置き物じたいは何も変わっていない。
壊れてもいないし、古びてもいない。
どこかの瞬間で、あんなに欲しかったものが、
いらないものに変わっているのだ。

「いらない」になっている自分の気持ちに
心の奥ではうっすら気づいていながらも、
それを見ないようにしている
もう一人の自分がいるのではないか。
その、心の奥底に追いやっていた気持ちに
真正面から向き合わざるをえなくなるのが、
大掃除または引越しの時なのだ。

もう自分を偽るのはよそう。
なるべく早く、「いらなくなった日」を自覚するのだ。

例えば、「いらない」を自覚した日が今日だとする。
では昨日はどうだろう?
今日「いらない」ものは、
昨日もやはり、いらなかったのではないか?
そして昨日いらないものは、
その前の日もいらなかったのではないか?
そして・・・

置き物って、いらないんじゃないか。




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by pictist | 2009-09-12 01:57 | ぬかコラム
精霊馬
お盆にナスやキュウリで
動物の置物をつくる風習がある。
あれは牛や馬を表しているそうで、
故人の霊魂がこの世とあの世を
行き来するための乗り物なのだそうだ。

それなら、別に牛や馬じゃなくていいわけだ。
自動車でもいい。
そのほうが速いし、故人に喜ばれるんじゃないか。
野菜で自動車とか飛行機とかつくってはどうだろう。

スペースシャトルなんかいいのではないか。
死んだら星になる、という言い方もするわけだし。
ナスを切って何個かのブロックをつくって組み合わせ、
スペースシャトル型にするのだ。

もちろんNASAとナスが掛かっている。

宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、
かつて宇宙開発事業団(NASDA=ナスダ)
という名前だった。
名称変更が悔やまれる。

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by pictist | 2009-08-27 18:02 | ぬかコラム
数える
数えている最中に話しかけられることがある。
文章の文字数とか紙の枚数なんかを数えているときに、
そうとは知らない人が話しかけてくるのだ。
だいなしである。

縄文人も、栗の数をかぞえてる最中に
話しかけられてがっかりしていたに違いない。

もう21世紀だ。
数えている最中に話しかけられないようにする
ライフハックを、誰か考えてくれないか。

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by pictist | 2009-08-13 00:14 | ぬかコラム
かわいそうな偉人
ガリレオ・ガリレイの
「それでも地球はまわっている」
というセリフは有名だ。
どうやら本当にそう言ったわけではないらしいが、
この言葉は広く知れ渡っている。
ガリレオと言えば、このセリフだ。

ガリレオは地動説を唱え、教会の怒りを買い、
異端審問にかけられた。
ガリレオの名は、しばしば
「信念を貫いた者」の象徴として引き合いに出される。
たとえ迫害に遭っても、
自説を信じ貫こうとした姿に人は感動するのだ。

ただ、ガリレオは処刑を免れるため異端審問で
地動説を捨てることを宣誓した。
自説を曲げたのだ。
その直後に呟いたとされるのが、冒頭のセリフである。
そして、彼は生き延びた。

殺されそうになったのだからしょうがない。
誰だってそうするだろう。

ところで、16世紀のイタリアに
ジョルダーノ・ブルーノという天文学者がいた。
彼も地動説を唱え、教会の怒りを買い、
異端審問にかけられている。
それも、ガリレオより数十年も前に。

しかもジョルダーノ・ブルーノは
自説を最後まで曲げようとせず、
火あぶりにされて死んでいるのだ。

ひどくね?

いや、教会が、じゃなくて。
なんでガリレオの名前だけ浸透してんだと。
「それでも地球はまわっている」
は、ジョルダーノ・ブルーノにこそ
ふさわしい言葉ではないか。

なんてかわいそうな偉人だろう。
もちろんガリレオの名が広く知れ渡っているのには
いろいろな理由があるのだと思う。
ガリレオのほうが科学者として
大きな実績を残したことは間違いない。
同じ地動説でも、観測事実に基づいた
より科学的な説を発表したのだろうし、
また物理学者としても数々の功績を残した。

しかし、それならば。
ガリレオは偉大な天文学者として
正当に評価してあげればいい。
そのかわり、「それでも地球はまわっている」
は、ジョルダーノ・ブルーノが
言ったことにしてあげないか。

火あぶりにされながら、最期にそう叫んだという話を
後世の人たちが伝えてあげたっていいじゃないか。

かわいそすぎるので
この機会に名前を覚えてあげてほしい。
ジョルダーノさん。

あとガリレオってガリレオ・ガリレイという
名前のインパクトでちょっと得してないか。

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by pictist | 2009-07-30 10:13 | ぬかコラム